佐藤天彦八段、読み筋にないシチュエーションでの逆サイン会

今年1月に八段昇段とA級への昇格を果たした佐藤天彦(さとう・あまひこ)八段。予想外のシチュエーションで八段になって初めてのサインをしたそうです。

* * *

ある演奏会でのできごと。その日はソプラノ歌手のリサイタルでした。ソプラノ、フルート、チェロ、チェンバロが各1人ずつの計4人という小規模な演奏会で、柔らかく優しい歌声を堪能することができました。
そして終演後にはサイン会が。今回は4人中3人が外国の方で、1人が日本の方でした。「サインをお願いします」と日本語で言いながらジェスチャーし、書いてくれたら「サンキューベリマッチ」と言って握手を求めるという作戦で行きます。
最初はソプラノ歌手の人。このコンサートの主役といえる存在ですが、良い意味で気取ったところのない、歌声と同じく優しい雰囲気を持った女性でした。
次がチェンバロの日本人の女性で、その次はフルートの男性。最後がチェロの男性です。ここまでは作戦どおり。言葉は通じなくても、笑顔と握手で少しだけ心も通う気がします。
良い気分で演奏家の人たちがサインをしているところを近くで見ていると、手が空いたフルートの男性が「ミュージシャン〜(聞き取れない)?」と声をかけてきました。
声をかけられるのは読み筋になかったのでびっくり。聞き返すと、「ミュージシャン オールソー?」。「君も音楽家?」のような意味と解釈しました。
全身黒ベースの独特のファッションをしている僕は、同業か音楽学生ではないかと思われたのかもしれません。
慌てて頭を回転させ、「ノー。ジャパニーズチェスプレイヤー。プロフェッショナルプレイヤー」と答えます。「チェス?」「ノー。…」というようなやりとりがありましたが、最終的には「ショウギ」というと分かってくれて、しかもとても喜んでもらえました。
途中から会話に加わったチェンバロの女性によると、フルートの彼は日本や日本の文化が大好きなんだとか。彼らはパリから来ていたのですが、パリでも将棋は盛んだそうです。以前、タイトル戦の移動の新幹線で羽生善治名人と隣になり、フランスでも将棋が人気と聞いたのを思い出しました。
フルートとチェロの男性がおもむろに背広のポケットをまさぐって紙の切れ端を取り出し、笑顔で「サイン プリーズ?」。もちろん、喜んでサインしました。このときボールペンで書いたサインが、八段の僕にとって初めてのサインになりました。
しかも、真後ろに並んでいた男性のお客さんも僕のことを知っていて、サインを求められました。実際どうかはともかく、こうなると「君、有名なんだ!?」ということになり、その場が笑いに包まれました。
将棋の棋士なのを喜んでもらったこと、パリでも将棋は人気なこと、そして予想外の逆サイン会で思いもかけない盛り上がりになったこと。演奏はもちろん、いろいろなうれしいことや楽しいことが重なり、ホールから出たあとは弾むような気持ちで駅までの道を歩いたのでした。連絡先の交換はしませんでしたが、彼らが次に日本に来たときに、また会いにいきます。
■『NHK将棋講座』2015年5月号より

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