第三紀層の魚
- 『すばる 2010年 12月号 [雑誌]』
- 集英社
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数年前、「KY(空気読めない)」という言葉の流行により、「空気が読めない人」は、コミュニケーション能力が低い人間だからと疎んじられる風潮がありました。でも、子どものときには気にしなくても済まされた行為が、いつしか「周囲に合わせるのが当たり前」とみなされるのは不思議なものです。いったい、いつから人は「空気を読める」ようになるのでしょうか。
本作「第三紀層の魚」の主人公は、釣り人の憧れの獲物「チヌ(クロダイ)」を釣り上げようと、日々釣りに明け暮れる小学生の男の子。関西の片田舎に生まれたこの少年に父親はおらず、うどん屋で店長を任される母と父方の祖母、寝たきりの曾祖父の3人に囲まれて生活をしています。彼の日課は釣り上げた魚を祖母の家に持っていき、それを料理してもらうこと。一般的な家庭像とはややかけ離れたこの家族ですが、生活自体は穏やかそのものでした。
嫁姑の争い、介護苦や経済苦もないし、反抗期もなし。一見してトラブルとは無縁の家族ですが、少年は徐々に自分をとりまく環境、「大人の事情」に気づいていきます。寝たきりの曾祖父が固執する戦時中の国旗や勲章。祖母と母の間で毎晩のように交わされる不自然なほどの「ありがとう」の応酬。何気ない母の無神経な発言。親友のそっけない態度。そして、自分自身の意識や体の変化。
後半、葬儀のために親戚一同が集まるシーン。そこで、主人公の少年は、自分が親戚から浮いているような奇妙な「場違い感」を感じます。葬儀後、その話を母にすると、「あんたがそうならお母さんはもっと場違いよ。血、つながってないから」という彼女の呟きから、死んだ夫の家族である祖母や祖父、親戚と接するたびに母がずっと感じ続けてきた疎外感、孤独感に初めて気がついてしまうわけです。
終盤、「空気が読めるようになった」少年が、ここしばらく自分に起こった心境の変化を憂うかのように、大泣きします。「空気を読む」ことの積み重ねは、大人になるための第一歩。でも、それは「これまで知らなくても済まされた面倒くさい人間関係を、今後は考慮して生きていかなければならない」という事実でもあります。また、他人のために、自分の意思を押し殺して生きていかなければならないということにもほかなりません。そう考えると、はたして、空気を読めることは幸せなのか、それとも不幸せなのか......。
ちなみに作者の田中慎弥氏は、30歳の時に「冷たい水の羊」でデビューするまで、アルバイトも含めて一切仕事をしたことがないニート作家として話題になった人物です。「年頃になったら定職に就く」という世間の風潮に逆らう、ある意味「KY」な田中氏が、「空気を読む=大人になる」という世の図式になにを思うのかが作品を通じて垣間見られる気がします。