まさに孤高の存在...『あしたのジョー』力石徹のモデルになった天才空手家の生き様
- 『力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』
- 森合正範
- 東京新聞
- 1,650円(税込)
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「ボクシングマンガの金字塔」と名高い『あしたのジョー』(講談社)。実際に読んだことはなくても、タイトルは知っているという人も多いだろう。矢吹丈を主人公に数々の熱戦がリング上で繰り広げられ、今なおファンから熱烈な支持を受けている。
そんな不朽の名作において、矢吹の前に立ち塞がるのがライバルの力石徹。壮絶な最期を遂げたことでも有名な力石は矢吹と人気を二分しており、実際に葬儀まで執りおこなわれたほどだった。今回紹介する森合正範氏の著書『力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』(東京新聞)は、タイトルが示す通り力石のモデルである空手家・山崎照朝氏の半生に迫ったドキュメンタリーだ。
森合氏が山崎氏と初めて対面したのは、2008年の後楽園。記者だった森合氏は山崎氏の外見・背格好を把握しておらず、当時編集部から伝えられた言葉を以下のように綴っている。
「あっ、知らないんだ。一人だけ雰囲気が違う人がいるから」
「ただ者じゃないな、という人がいるから、その人に声を掛ければ大丈夫だよ」(同書より)
その言葉だけでも、山崎氏のただならぬオーラが伝わってこないだろうか。まさに力石のモデルに相応しい表現であり、同書のカバーに掲載されている空手着姿の山崎氏からも殺気めいたものを感じ取ってしまう。ちなみに山崎氏は普段から周囲に鋭い眼光を向け、喫茶店ではいつ襲われても対応できるよう角の席を選んでいるそうだ。
『あしたのジョー』に力石が登場する前から、原作者の梶原一騎氏と面識があった山崎氏。とはいえ住む世界も考え方も全く違うため、「もう梶原とは会いたくない」との気持ちもあったという。ところが山崎氏は師匠である大山倍達氏の勧めもあり、梶原氏の仕事場で再会。その際、梶原氏の口からはっきりと通達を受けた。
「ジョーにライバルができた。力石っていうんだ。おまえがモデルだ」(同書より)
ちなみに『あしたのジョー』は原作を梶原氏(高森朝雄名義)、作画をちばてつや氏が担当している。梶原氏は山崎氏の生き様を力石に投影したものの、ちば氏は梶原氏の原稿を読んで力石を「あまり重要ではないキャラ」と受け取ってしまう。そのため、ちば氏は力石の体格を矢吹より大きく描いたが、結果的に力石の壮絶な減量シーンに繋がったことはまさに怪我の功名といえるだろう。
そもそもなぜ、梶原氏は力石のモデルに山崎氏を選んだのか。そんな疑問を解決するように、かつて梶原氏の秘書兼運転手を務めた阿部義人氏が答えている。
「梶原先生は本物とか強い人を書きたい方。だから山崎先輩の強さに惚れ込んでいた。
クールでニヒル。でも、ストイックで強い。そのムードや雰囲気、佇まいを力石に当てはめたんだと思いますね」(同書より)
山崎氏は梶原氏が原作を担当した別作品でも、モデルとしてではなく実在の空手家として登場している。とはいえ山崎氏は当初難色を示し、梶原氏に他の空手家を描いてほしいと伝えたことも。他人に媚びない姿勢は力石が持つ「孤高」のイメージとも重なるが、山崎氏には「作品に登場した空手家の人気が出れば、その道場の宣伝になるはず」という思いもあった。
喧嘩に強くなることを目標に、山崎氏が空手を始めたのは1964年。家族には内緒のまま17歳で極真会館に入門し、創設者であり師でもある大山氏と出会った。極真に「敗北」は許されず、一度だけチンピラ相手に拳を出した際に大山氏からかけられた言葉を山崎氏は振り返る。
「うーん、喧嘩は駄目だ。でも大義があれば仕方ない。その代わり、きみ、負けたら破門だぞ」(同書より)
極真を広めたい大山氏には、「1000人の弟子よりも、1人強い男がいれば格闘界を制圧できる」という思惑があった。山崎氏はまさにその「強い男」と合致したのだが、当の山崎氏は必ずしも師と同じ考えではなかったようだ。極真の第1回全日本選手権で優勝を飾った山崎氏の思いを森合氏は代弁する。
「地位も名誉も金もいらない。大会の優勝を目指して空手を始めたわけでもない。極真の看板を守った。それがすべてだった」(同書より)
もちろん山崎氏の性格だけでなく、その名が語り継がれる理由には大山氏の空手を体現した技術によるところが大きい。とはいえ梶原氏が寵愛したように、生き様そのものが多くの人を魅了しているのも事実だ。
現在のように困難な時代において必要なものは、山崎氏のように無欲かつストイックに自分の道を邁進する心ではないだろうか。