棚橋弘至(たなはし ひろし)

生年月日:1976年11月13日
身長:181cm
体重:103kg
出身地:岐阜県
BLOG  http://ameblo.jp/highfly-tana/
Twitter @tanahashi1_100
Instagram @hiroshi_tanahashi

大学時代からレスリングを始め、98年2月に新日本プロレスの入門テストに合格。
99年に立命館大学を卒業し、新日本プロレスへ入門。同年、後楽園ホールにでデビューを果たす。
03年3月、自らが熱望していた「U-30(30歳以下限定王座)」を提唱しリーグ戦を開催。
同年4月に勝利を収め初代U-30王者となった。
その他、吉江とのタッグで第44代IWGPタッグ王者、永田裕志とのタッグで第47代GHCタッグ王者、
IWGPヘビー級最多戴冠数保持など、華やかな経歴を持つ。
近年はリングを越えて、テレビのバラエティやドラマなどでも活躍中。

博士による紹介

さー!!!ついに『メルマ旬報』に100年に一人の逸材が入団しました。
今回の電撃入団に至る経緯を記します。
まず、ボクが最初に棚橋選手を意識したのが2002年2月1日の新日本プロレス札幌大会「猪木問答」です。
翌日の深夜に「ワールドプロレスリング」が放送されました。
札幌大会では、リング上のマイクアピールで猪木政権から蝶野への禅譲、そんなプロレス絵巻が繰り広げられました。

――簡単に当時の状況を説明しましょう。

21世紀初頭、新日本プロレスは、人気選手の武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンらが離脱するなど、低迷状態にありました。
オーナーの猪木から現場責任者に指名されて新日本プロレスを内部から支えるポジションに就いた蝶野正洋が、札幌大会のメイン終了後、マイクで呼びかける形でアントニオ猪木を呼び込みます。
通常であれば猪木が、会場を盛り上げる役割を担うという形なのですが、この時ばかりは趣向が違いました。
人気選手の退団や、総合格闘技ブームと重なっていた事もあり、新日本プロレス内外で溜まっていたフラストレーションを吐き出させ、もう一度確固たる地位を築くべく猪木側からすれば議論する場を設けたのです(それ故に、「猪木問答」と呼ばれています)。
猪木に対峙するは蝶野、同じ試合でタッグを組んでいた天山広吉と後藤達俊、第三世代の永田裕志と中西学、鈴木健三(現:KENSO)、棚橋弘至の7人がリングインしました。
そして、猪木が「おめぇは、怒ってるか!誰にだ!」と問いただします――。

「全日に行った武藤です」(中西)
「(上にいる)すべてに対して怒ってます」(永田)
「僕は自分の明るい未来が見えませ~ん」(鈴木)
「俺は新日本のリングでプロレスをやります!」(棚橋)
という言葉を引き出しました。

各選手、この時ほど、アドリブや自分の言葉でアピールできるか試されたことはなかったかもしれません。

全てを聞いた後の猪木は「まぁそれぞれの思いがあるから、それはさて置いて……」言下に退きました。

最後の棚橋選手の発言、当時の猪木からの相手にされて無さ、さほどファンの期待もありません。(「オメエはそれでいいや」と言われた中西選手や、「見つけろ、テメエで!」と一括された健三選手ほどではないにせよ……)

しかし、この時期、格闘技がグイグイと押し寄せてきたなかで、プロレスのみへ向けられた視点の違いに、改めて注目させられました。

そして、2002年11月27日のあの日!
新日本・棚橋刺傷、事件勃発。
「“痴情のもつれ”で、プロレスラー棚橋が女に刺される!」

翌日、スポーツ新聞一面は棚橋選手が独占しました。

伊勢丹前の猪木夫妻を襲ったタイガー・ジェット・シンじゃあるまいし、こんなアングルはありえません。
正直、「この選手は私生活もチャラいのだなー」と思いました。
ああ、これで選手生命も終わったなーと。
ここから立ち直るのは並大抵ではできないことです。

しかし、この窮地をカウント2・99で跳ね返し、棚橋選手は、徐々に失地回復します。

その後、10年の月日が経ちます――。

2012年12月16日のこと。
プライベートで帰郷したボクは、倉敷から大阪へ移動するために、岡山駅ホームで一人待っていました。
すると突然、のぞみから降りてきた大男に、直立不動で突然、頭を下げられたのです。
「新日本プロレスの棚橋です!」
それは、大きな声で、バカ丁寧な挨拶でした。

その瞬間、こちらが恐縮しました。
初対面で向こうから頭を下げられて悪い気がするはずがありません。
その日以来、棚橋選手への印象が変わりました。

この話は重要で、この日以来、ボクは百瀬博教さんから教わった「挨拶は身を守る鎧」のフレーズを発するたびに、反射的にあの棚橋の鎧のような体を想い出すようになりました。
そして、若い頃はちゃんと挨拶ができなかったから刺されたのだろう(笑)とも。
ちなみに翌日のボクのブログに、こんな風に書いています――。

「KAMINOGE最新号(Vol.13)、届いていた。とにかく読んでいる時間がないのだが、昨日出会った棚橋選手があまりに好印象だったので、まずは棚橋選手から読もうという気になる。挨拶は身を守る鎧であり人の繋がりの架け橋だ」

それを読んだ棚橋選手から、こんなツィートがありました。

「新日本プロレスの棚橋です。ツイートありがとうございます。『挨拶は身を守る鎧であり人の繋がりの架け橋だ』。心にしみました☆」

棚橋選手は著書のなかでも、あの日の出来事を触れてくれています。

その後、新日本プロレスを熱心に見る習慣はなかったのですが、棚橋選手だけは気にかかっていました。
なぜなら、この『メルマ旬報』の執筆者のひとり、フリーライターの茂田浩司さんはもともと棚橋番。棚橋の単行本の構成担当者でもあったのです。

『棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか』、『全力で生きる技術』(共に、飛鳥新社)と棚橋本が出るたびに、茂田さん経由で読みました。

そして、もう一方の人脈もあります。
『メルマ旬報』執筆者の弁護士・角田龍平です。
こちらは立命館繋がりです。

例えば『角田龍平のオールナイトニッポンPodcast』で、ユリオカ超特急ゲスト回のときは、共に立命館大学出身でプロレスに造詣が深いふたりなので、同じ立命館大学つながりで、棚橋弘至、レイザーラモンHG、RG、ターザン山本へと話が繋がっていくところ、グルーヴ感を感じました。

試合の方も、2015年1月4日、メインのIWGPヘビー級選手権試合の棚橋弘至vsオカダ・カズチカ戦や、G1クライマックス決勝戦で棚橋が中邑を破って優勝した時は、テレビ観戦しながら確実に魅入られました。
 
そして、今年の夏――。
「時は来た!!」(横で蝶野が薄笑い)
茂田さん、角田さんの両ルートで電撃入団の裏交渉を詰めていきました。

遂に、棚橋選手と直接会う時がやってきました。

今年、2016年8月6日、エディオンアリーナ大阪――。
ボクは、実券を買い、『メルマ旬報』「る」組メンバー精鋭陣とリングサイド5席を専有します。
2002年以来となる、14年ぶりの新日本プロレス観戦です。
そして、休憩時間、海野レフリーの計らいで、棚橋選手にご挨拶させていただきました。
あの日の岡山駅のホーム以来の約4年ぶりの再会です。
ガッチリと握手。
「棚橋!オマエのリングはわかった。じゃあオレのリング『メルマ旬報』で書けるのか?」
言外に語りかけます。

そして、試合では、棚橋選手が天才・丸藤選手との激闘を制して勝利しました。
これ以上ないほど、歓喜と興奮のリングサイドのボクに向かって棚橋選手はこう言ったのでしょう。

「誰の挑戦でも受ける!」

プロレスを背負っての連載です!!     (2016年9月)

【動画】『メルマ旬報.TV』ゲスト・棚橋弘至(2016年11月18日放送)
https://videotopics.yahoo.co.jp/video/stove/92069