ラジオブロス

川野将一

Listen.105 特別編 新刊『ラジオの残響 ヘビーリスナー聴く語り記』立ち読み特別号

6月16日に出版しましたラジオのリスニングエッセー集
『ラジオの残響 ヘビーリスナー聴く語り記』(双葉社)。
たくさんの方に読んでいただき本当にありがとうございます。
しかし、外出して本屋に行きにくいなか、約52万字、全768ページで3300円という
厚く重く高い本を中身も見ずに購入することに躊躇されている方も多いと思います。

そこで、前号では本の大まかな内容について解説をさせていただきましたが、
https://bookstand.webdoku.jp/melma_box/jyunpo/detail.php?sid=8&aid=2626
今回は、双葉社の公式ホームページで無料公開されている「まえがき」に続き、
https://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-31627-8.html
全41章の「立ち読み」として、各章の冒頭約20行分を無料公開させていただきます。
横書きになっている関係上、実際の本とは表記や改行位置等が異なっている箇所が
あることをご了承ください。





■『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』
2007年4月7日〜2018年3月31日 TBSラジオ 毎週土曜 主に22:00〜0:00放送

気をつけろ!あなたのカレシが語る映画評も、もしかして宇多丸の受け売りかもしれないぞ。

2012年4月14日に放送された、既存の本に勝手に帯のコピーを考えるコーナー「OV-1グランプリ」。その第1回で題材となった番組発の映画時評本『ザ・シネマハスラー』に投稿し優秀作に選ばれた、リスナー「てんぴゅーる・まき」考案の先の帯コピーはあまりに上手すぎて痛かった。僕は間違いなく言っている。「あの主人公、芝居が悪い意味で演劇的なんだよね」とか「現実には存在しない問題を問題化していることが問題なんだよな」とか大安売りで周囲に受け売りしている。だから『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』(以下、『タマフル』)のリスナーとは映画について話すことができない。バレそうになった時には「……って、ラジオで宇多丸が言ってたけど確かにそう言えなくもないね」などと、受け売り以上に偉そうに語ったこともある。

 あの会場にはそんな仲間達もいたに違いない。2018年2月23日、新宿バルト9で開催された『タマフル映画祭FINAL』。番組が選んだ映画を上映する名物イベントにおいて今回選ばれたのは、高評価となり最大級に盛り上がった宇多丸チョイスによる2作品『桐島、部活やめるってよ』と『クリード チャンプを継ぐ男』の上映&トーク。土曜日の夜、普段はそれぞれの部屋のそれぞれのラジオで耳を澄ませている400人のリスナーが宇多丸&『タマフル』スタッフとともに、『桐島』の映画部部員・武文の名セリフ「おっまた〜」で一緒に笑い、『クリード』のエンディングロールの名場面カットに共に胸を熱くさせたオールナイト上映。僕は一番後ろの席から見たその多幸感に満ちた光景に、活字と写真でしか知らない古の林美雄のラジオイベントを想像した。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万8000字


■『 サンドウィッチマンのラジオやらせろ! 』
             2007年7月3日 〜 fmいずみ 毎週火曜 19:30 〜 20:00 放送

伊達「なんかクリスマスの思い出みたいのはあるの?」
富澤「俺はね、基本的にアルバイトしちゃうから」
伊達「あー、はいはい」
富澤「人がいなくなっちゃうのよ」
伊達「どういうこと?」
富澤「“クリスマスなんで休ませてください”って」
伊達「他のバイトのメンツがね」
富澤「店長クラスに大体なってるから入らざるをえなくなる」
伊達「なるほどね、休めないと」
富澤「だから、ピザ屋やってた時なんかはサンタの格好してやってた」

2007年のクリスマス、12月25日放送の『サンドウィッチマンのラジオやらせろ!』。事前に収録された放送を聴くラジオリスナーは時にパーソナリティの明日を知る“未来人”になる。
2日前の12月23日、『M-1グランプリ2007』(ABC・テレビ朝日系)で奇跡的な優勝を果たしたことを、ラジオでのんきにしゃべっている2人はまだ知らない。この日、期待していた王者としての第一声を聴くことはできなかったが、『M-1』最終決戦で披露された2本目のネタ「ピザのデリバリー」が、サンタにも扮して汗をかいていた富澤の実際のアルバイト経験から作られていたことは確認できた。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万5000字


■特別編「SMAPラジオ 華麗なる終焉」

 『中居正広のSome girl’SMAP』
1995年7月1日〜2016年12月31日 ニッポン放送 毎週土曜 23:00〜23:30 放送       
『木村拓哉のWhat’s UP SMAP!』
     1995年1月〜2018年7月27日 TOKYO FM 毎週金曜 23:00〜23:30放送
『稲垣吾郎のSTOP THE SMAP』
1991年10月7日〜2016年12月29日 文化放送 毎週木曜 21:30〜22:00 放送
『SMAP POWER SPLASH』草なぎ剛&香取慎吾
1995年4月〜2016年12月25日bayFM 毎週日曜19:00〜20:00放送
『おはようSMAP』SMAPメンバー交代で1人ずつ出演
      1994年10月1日〜2016年12月30日TOKYO FM 毎週月曜〜金曜 6:25〜6:30 放送

木村「キャプテン、SMAPって6人だったんですか?」

『木村拓哉のWhat’s UP SMAP!』(TOKYO FM)2005年10月28日放送で13歳リスナーの質問が読みあげられた。きっとスタッフは緊張の面持ちで木村にそのFAXを手渡したことだろう。
SMAPに最初の「解散説」が流れるきっかけとなった森且行の脱退。1996年5月27日放送の『SMAP×SMAP』(関西テレビ・フジテレビ系)ではメンバー6人でのラストライブが披露され、森が皆と歌うために選んだ最後の曲は「BEST FRIEND」だった。その歌い終わり、激しく泣きじゃくるリーダー・中居に代わり木村にマイクが託された。

木村「俺もこれからの森且行のほうが手強いヤツになるんじゃないかと思って。より一層気合い入れないと。お互いに。がんばろう」

メンバー6人によるスタート時の『STOP THE SMAP』(文化放送)でも、森の口から早々に伝えられていたオートレーサーになる将来の夢。本人はアイドルとの“両輪”を希望していたが事務所も協会もそれは許さず、覚悟を決めて転身したそのプロフィールには「元SMAP」と書くことも許されなかった。以降、残されたメンバー5人もまるで「森且行」が最初からいなかったかのように活動していくことが強いられ、“6人目の元メンバー”の存在はテレビ番組を始めとするSMAPを扱う全ての媒体にとってのタブーとなった。

木村「とうとうこの日が来ました! 『SMAPって6人だったんですか?』という13歳からのFAXが来てしまいましたー!」
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万6000字


■『 ももいろクローバーZ ももクロくらぶxoxo 』
             2012年4月8日〜 ニッポン放送 毎週日曜 22:00 〜 22:30 放送

「ここまで津波が来たんだよ」。

タクシー運転手にそう教えられて辿り降りた高台の病院。その駐車場の一角にある“サテライトスタジオ”と呼ばれる2畳のプレハブ小屋。2015年3月2日、僕は東京から電車を5時間ほど乗り継いで、宮城県女川町の臨時災害FM放送局「女川さいがいエフエム」を訪ねた。

「女川町のいまがわかる 女川町限定のラジオ おながわ☆なう!」

2011年3月11日の東日本大震災の翌月、町のおよそ3分の2が津波によって壊滅した女川町に開局。そんなタイトルコールで始まる『おながわ☆なう』は月〜金曜日の11時30分〜13時30分まで放送されていた、炊き出し・入浴の時間から交通機関の復旧状況などを伝える局の看板となる情報番組だ。東京にいて何をして良いか分からない僕は、インターネットを通じて聴くことが出来る『おながわ☆なう』を度々聴きながら、ある時ホームページにある「スタジオ見学」の欄を発見し思わずクリックしていた。

局員は10代〜30代までの経験を問わない“寄せ集め”の地元民。ある人は流された家の鍵を首から下げ、ある人は亡くなった母のスニーカーを履き、ある人は焚き火に当たっていたところを、ある人は避難所で引きこもっていたところを声をかけられ集まり、時に涙をこらえてマイクに向かい、時にスタッフ同士で喧嘩しながらの放送。その様子は、2011年7月放送の『クローズアップ現代「密着 女川災害FMの3か月」』(NHK総合)、2012年1月放送『がんばっぺラジオ〜密着・女川災害FM』(NHK総合)等のドキュメンタリーとして放送され、さらには同局を舞台にした『ラジオ』というタイトルのテレビドラマもオンエアされ、第68回文化庁芸術祭大賞、第50回ギャラクシー賞優秀賞ほか多くのドラマ賞を獲得した。・・・と書いたらバレてしまうように、スタジオ見学といいながらも完全なる同ラジオ局のドラマ&ドキュメンタリーにハマった、不謹慎を承知で言わせてもらえばラジオファンとしての“聖地巡礼”である。だが、それだけでは済まなかった。

現地を訪れたその日、スタジオに入って局員たちと挨拶を終えて視界に入ったのは壁に貼られた1枚の写真。そこには僕が今いる、まさにこのスタジオの中で笑顔で指を差し「Z」ポーズを決めている彼女たちがいた。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万6000字


■『 ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン 』
   1989年4月14日〜1995年4月7日 ニッポン放送 毎週金曜 深夜 1:00 〜 3:00 放送

内村「まさか、ここで聴けるとは! 夢のようです!」

2017年12月31日、『NHK紅白歌合戦』(NHK総合)という正夢の舞台で、総合司会という立場ながら歌手に最も近いNHKホールのステージ“特等席の観覧者”として誰よりも楽しんでいるように見えた、ウッチャンナンチャンの内村光良。曲の間奏中にも度々映し出さていた垂れた目で微笑んで傍観しているその姿から思い出したのは、2014年3月31日『笑っていいとも!グランドフィナーレ 感謝の超特大号』(フジテレビ系)だ。

タモリ、明石家さんま、とんねるず、ダウンタウン、爆笑問題、ナインティナイン・・・“混ぜるな危険”の第一線の笑いの猛者達の中に加わりながら、誰ともバチバチもギスギスもしていない、決して「ネットが荒れない」立場として後ろのポジションからニコニコと一同の様子を見守っていたのが、ウッチャンナンチャンの2人だった。ただ一度スポットが当たったのは、南原清隆のギャグダンス「ナンバラバンバン」。内村にいたっては振られて前に出て披露された南原のギャグにさえツッコミも他に任せて絡まむことがなく、穏やかに顔をほころばせているだけだった。

 そんな出演者の表情はラジオでも伝わった。見えていないのに今でもはっきりとイメージできてしまう、30年前の緊張で強ばった顔。翌週からの新番組スタートを前に、1989年3月31日放送『鴻上尚史のオールナイトニッポン』最終回に24歳のウッチャンナンチャンがゲスト出演した。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万6000字


■村上春樹『村上RADIO』
            2018年8月5日〜 TOKY0 FM 毎月最終日曜日 19:00〜19:55 放送

  「やあ、みんな今晩は、元気かい? 僕は最高に御機嫌に元気だよ。みんなにも半分わけてやりたいくらいだ。(中略)イカしたホット・チューンをガンガンかける。なつかしい曲、想い出の曲、楽しい曲、踊り出したくなる曲、うんざりする曲、吐き気のする曲、何でもいいぜ、どんどん電話してくれ。電話番号はみんな知ってるね。いいかい、間違えないようにダイヤルしてくれよ」

 番組はそんなオープニングで幕を開けた・・・というのは冗談で、これは『風の歌を聴け』で主人公「僕」が聴いているラジオN・E・B『ポップス・テレフォン・リクエスト』のDJによる名調子。初めてパーソナリティを担当する村上春樹のしゃべりは期待に応えながらも予想を裏切るものだった。

村上「こんばんは・・・・・・村上春樹です」

ストップウォッチで計った空白は2秒58。記念すべき第一声で何を言うか? を的中させた多くのリスナーも、この電波状況を心配させるほどの長い空白までは予想することが出来なかっただろう。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万1000字


■『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』
       1989年4月10日〜 ニッポン放送 毎週月曜・金曜 11:30 〜 13:00 放送
『春風亭昇太と乾貴美子のラジオビバリー昼ズ』
       2012年11月〜 ニッポン放送 毎週水曜 11:30 〜 13:00 放送

2016年5月22日放送の『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』(JFN系列)。『電波少年』(日本テレビ系)の黄金期に汗と涙を流した同士である「なすび」が3度目の挑戦でエベレスト登頂に成功したニュースへの祝福を送ったあと、有吉は放送日の夕方に電波を賑わしたばかりのその話題に触れた。

有吉「次の『笑点』(日本テレビ系)の司会者が昇太さん。昇太さんといい、来週の松村さん(松村邦洋)といい、『ラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)のレギュラーチームですよ。私もまだ準レギュラーみたいな気持ちでいますけども、高田先生(正しくは「はしごだか」)を慕っておりますからね。自分のことのように嬉しいですね、『ビバリー』の仲間から司会が出たんだなーと。まぁ、いろんな予想をしてた人がいましたけどね、たけしさんがやるんじゃないかとか、中居くんがやるんじゃないかとか、トンチンカンな無責任な予想してた人は“土下座”してほしいですね」

有吉の過剰な指令に従うなら、日本全国の飲み屋の酔っぱらいを含めて額を地に付けて反省すべき人は数万人にも及ぶのだろうが、有吉のファンで高田文夫を慕う『ビバリー昼ズ』のリスナーとして思わず感嘆の声を上げそうになったのは、まだ「準レギュラー」の気持ちでいるという発言だ。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万2000字


■『菊地成孔の粋な夜電波』
    2011年4月17日〜2018年12月30日 TBSラジオ 放送曜日・時間を変えて放送
  
菊地「この8年間、“ラジオを聴いています”って言われて内心うんざりするとか、ちょっと困るなんてことはコンマ1秒もなかったです。だからこそのね、ワタシの内部の葛
藤はくすぶり続けたんだと思います。うんざりできてりゃ良かったんですね。もうそ
のうち、苦しくて葛藤だか何だかわかんないぐらいまで葛藤した結果、ある時、完全
に吹っ切れた瞬間っていうのが来たの。“もういいや。もう俺・・・わかった、もうい
い。もう俺、ラジオの人でいいわ! 俺、菊地成孔の人生の最高傑作が『粋な夜電波』
でいいわ!”って腹をくくった瞬間があったの」

2018年12月30日『菊地成孔の粋な夜電波』(TBSラジオ)の最終回で「ラジオパーソナリティ」という肩書きを受け入れたことを認めた菊地成孔。こと筆者も、新宿ピットインなどでジャズミュージシャンとしてのステージを鑑賞していながらも、実際、家で聴くことが多いのはCDよりもラジオの方だったことは否めない。そんな菊地の“くくった腹”から、僕は伝説のラジオDJの言葉を思い出した。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万2000字


■『広末涼子のがんばらナイト』
       1996年4月3日〜2000年3月29日TOKYO FM 毎週水曜 23:25 〜 23:55 放送

本番は炎天下で行われるため部屋のクーラーは入れず、1か月前から振付DVDを見ながらみっちりと汗だくの自主練習を繰り返してたという広末涼子。その本番とは「仕事」ではない。だが、彼女にとっては同等に大事な「祭り」のことだ。8月10日〜11日に開催される、毎年恒例の南国土佐・高知の「よさこい祭り」。女優のWikipediaとしては唯一であろう粋な法被姿で写真が掲載されている広末。今でも夏になれば、地元で「ヨッチョレ」と声を挙げて踊る彼女の姿は観られるのだろうか。

広末「広末涼子! 高知出身の15歳! クレアラシルのCMでデビューしましたー!」
    「全国34局のネットだから高知の友達も聴いてくれてるでしょうか?」

1996年4月3日にスタートした、新人女優・広末涼子のラジオ番組。東京から地元に届けとばかりに南西の方角を向いてしゃべっていたであろう『広末涼子のがんばらナイト』。リアルな地方の高校生ぶりを感じたのは、1994年に行われた第1回クレアラシル「ぴかぴかフェイスコンテスト」でグランプリを獲得した彼女が、賞金の現金とは違う、大きな「1000000円」のボードそのまま持ち帰ったことを報告した2回目の放送だった。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万1000字


■『ウーマンラッシュアワーのオールナイトニッポンO(ZERO)』
   2014年4月3日〜2015年3月26日 ニッポン放送 毎週木曜 深夜3 :00 〜 5:00 放送
『ウーマンラッシュアワー村本大輔のオールナイトニッポン』
   2015年7月6日〜2016年3月21日 ニッポン放送 毎週月曜 深夜1 :00 〜 3:00 放送        
         
岡村「年間でどれくらいのハガキが送られてきて、どれくらいのお金になってるんでしょうね。すごい量ですもんね。ずっと言うてるけど、郵政から表彰してもらわれへん
もんかね?」

岡村隆史が度々番組でも言っているように『ナインティナインのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)はリスナーが書いて送ってくる各コーナーへの“ハガキ”で成り立っている。今は実際に送るものがメールであっても、“ハガキ職人”という言葉が使われることも多いが、ナインティナインは、1980年代、同じ木曜1部に放送されていた『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)に習い、本当の意味での「ペンネーム」による「ハガキ職人」の文化を受け継いでいる。3か月に1度開かれる、ネタの読まれた回数を発表する「ハガキ職人大賞」でも、1位は50枚、2位は30枚・・・その賞品もハガキだ。だが、今回は「オールナイトニッポン」の幅広さもうかがえるそれに相反した番組を取り上げる。そのスタジオにはハガキはもちろん、メールが届くこともなかった。

コーナー無し。ゲスト無し。音楽無し。

3つの“無し”を掲げ2014年4月からスタートした『ウーマンラッシュアワーのオールナイトニッポンO』(ニッポン放送)は、毎週木曜深夜1時から放送している『ナインティナインのオールナイトニッポン』が終わった直後の、深夜3時からオンエアされていたことに大きな意味がある。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全10000字


■『倉本聰 富良野からの風を』
    2001年11月4日〜2007年3月25日 ニッポン放送 毎週日曜 6:15 〜 6:45 放送

内村「母さん、僕は今、有楽町にいます。有楽町といえばニッポン放送のある場所なわけです。ニッポン放送といえば、あの倉本聰さんが、昔、務めていたところです。そう
いう場所で放送ができるというのは、嬉しくもあり、一方とても難しく、なんという
か、これはもう、丸太小屋をつくるより難しく・・・」
南原「純くん、お風呂ぬるいよ〜!」
内村「今のは父さんです。母さん、僕はとても怖いです。ドキドキしています。でも、怖くても、がんばるんだ。男の子なわけで・・・」
南原「純くん、お風呂ぬるいんだけど!」
内村「今のも父さんで、母さん、いよいよ始まります」
内村・南原「ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン!!」

1989年4月14日、深夜1時「オールナイトニッポン」新パーソナリティに就任した、横浜放送映画専門学院出身の内村光良と南原清隆によるウッチャンナンチャン。出世作となったショートコントのネタにも「倉本聰脚本のレンタルビデオショップ」があるように、『北の国から』(フジテレビ系)ファンの2人は黒板純のナレーションのパロディによって新番組の口火を切った。そうか、倉本聰は元々ラジオマンだったのか。僕はそれを知ってから倉本聰のドラマへの観方が変わったわけで・・・。
東京大学文学部の学生時代、劇団「仲間」の文芸部で脚本家デビューした、本名「山谷馨」が目指していたのは、卒業する1959年春に開局する「富士テレビジョン」から商号を変更した「フジテレビジョン」という新しいテレビ局だった。しかし、当時は系列のラジオ局との合同入社試験で、無事に合格を果たしたもの回されたのはラジオの「ニッポン放送」だった。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万2000字


■特別編「電気グルーヴの平成ラジオ〜『オールナイトニッポン』から『たまむすび』まで」

日出郎「♪エクスタシー獲たけりゃ肛門よ!」
観客「肛門よ!」

平成30年(2018年)3月17日、東京・Zepp Tokyoで開催された、電気グルーヴのワンマンライブ「クラーケン鷹」のアンコール。1992年の楽曲を石野卓球がリメイクした「燃える!バルセロナ」を歌い踊った日出郎が、ピエール瀧の親友として昼間のワイドショーに出演する日が来るとは思わなかった。その先のライブが収録された“出荷停止中(当時)”のDVDコメンタリーで、卓球がサポートメンバーの牛尾憲輔に問うかたちで久々に本人からその番組タイトルを耳にすることが出来た。

石野「オールナイトニッポンやってたの、知ってる?」

平成2年(1991年)3月11日、当時オールナイトニッポン月曜1部を担当していたナゴムレコードの盟友、『大槻ケンヂのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)の企画「イチ押しライブスペシャル」への参加をきっかけに、同年1月から10分間のミニ番組『電気グルーヴのビリビリ行こうぜ』(ニッポン放送)を担当していた3人の電気グルーヴ。それを受け同年6月8日から、深夜3時、土曜2部で始まったのが『電気グルーヴのオールナイトニッポン』だった。ニッポン放送がその存在を気にかけたのは、平成2年(1990年)6月リリースのアルバム『662 BPM BY DG』の1曲目に収録されたインディーズ時代の代表曲「電気ビリビリ」の歌詞の先輩ミュージシャンの名前がきっかけだった。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万9000字


■『 清水富美加 みなぎるPM 』
    2016年1月2日〜2017年2月11日 ニッポン放送 毎週土曜 21:00 〜 21:30 放送

清水「清水富美加の・・・みなぎる ぴゆぇーーーーえみゅーーーーッ!!!」

彼女がラジオパーソナリティとしてまともにタイトルコールをした記憶はほとんどない。自身で考案した、その番組タイトルを付けていた中学生の頃から調子はきっと変わっていないのだろう。

清水「“高まる”じゃ弱いわけですけよ! もっとこう、まるで温泉の源泉のように、下の方からバンッてくるような、おりゃーーって感じの“たぎり”を表現したいと思って、
中学生の頃からそう思っていて、ラジオ大好きだったので、その頃からひとりで、ラ
ジカセ横において携帯のボイスレコーダー開いて、音響自分でやって、お便りも自分
で書いて、自分のどこにも出ないラジオを部屋で静かにやっていたわけですよ! そ
の時のタイトルが『清水富美加 みなぎるPM』っていって、そのラジオが公共の電波
で流れるって、まさに中学生の夢がかなったわけですよね! ほんとにありがとうござ
います!!」

第1回放送でタイトルの背景と共に明かされたのが、番組メールアドレスにもなっていた彼女のニックネームの理由。かつて、クラスのリーダー的な女の子が皆の名前の最後に「ス」を付けることを流行らせていたため自分に付けられたのが「ふみかス」。しかし、彼女自身がブログで書くときの表記は「ふみカス」。後に自身で付けた“カス”は、皮肉にも自虐や揶揄の対象として利用されるようになった。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万1000字


■『 コサキンDEワァオ! 』
小堺一機&関根勤による前身番組含め、
1981年10月8日〜2009年3月28日/ TBSラジオ/時間・曜日を変え放送

関根「おすぎです!」
小堺「ピーコです!」
小堺・関根「ふんづけてやるっ!!」

2016年4月4日、関根勤と小堺一機が全力でおすぎとピーコのものまねによる挨拶をして始まった『サタデープラス』(MBS・TBS系)のロケ収録「コサキン勇気の心臓ドック」。だが、久々に“コサキン”の冠で行われた企画は4月23日に放送予定が組まれていたものの、何とボツに。代わってオンエアされたのは「小堺一機が勇気の人間ドックへ」。そのVTRからは一緒に受診していた関根勤の存在が消されていた。関根はその日の検査で、冠動脈が狭くなり血液の流れを悪くする症状が明らかに。トップシークレットのまま5月2日に心臓手術を受けたことが5月21日に事務所から発表された。5月28日放送『サタデープラス』ではその後の経過VTRも付け「関根勤(62)緊急心臓手術に30日間密着 生告白 その時 妻・娘は…真実を全て明かす」と題され改めて放送された。

筆者がその事実を知って驚いたのはシークレット期間中の5月14日、関根勤のトークライブを観覧していたからだ。『MC井川とゲスト関根勤』。半年に1回のペースで開催されている、事務所後輩のイワイガワ・井川修司が関根勤の溜まった鬱憤と妄想を吐き出させるトークライブだ。その回も不倫ブームへの警鐘、二枚目なのにパッとしない俳優の謎、都知事のスキャンダル等が笑いの標的になった、後に手術から12日後と分かった客前でのライブ。生死を意識する状況を迎えれば何かが悟られるのが普通だと思っていたが、人生訓的な言葉は何も無かったのは流石で、入院中にやはり家族愛を再確認することもあったのだろうか。ライブの最後には愛娘の名前を出して締めくくっていた。

関根「今後は麻里のバーターを狙っていきます!」
〜〜〜以降つづく〜〜〜全10000字


■チャットモンチー『SPARK』
     2014年10月6日 〜 2016年3月29日 J-WAVE 毎週月曜深夜0:00 〜1:00 放送
     2018年5月2日  〜 2018年5月30日 J-WAVE 毎週水曜深夜0:00 〜1:00 放送

福岡「高3のときに文化祭で組んだバンドがあって、その時に私とえっちゃん(橋本絵莉子)が初めてバンドしたんだよね」
橋本「そうなの」
福岡「チャットモンチーではないよ。Wikipedia情報はウソですからね」
橋本「6人でやったんだよね、女子ばっかりで。ボーカルが2人いて、片方の子がめちゃめちゃHIGH-LOWSが大好きで(中略)絶対やりたいっていったのが『日曜日よりの使者』って・・・」

2016年2月2日放送の『SPARK』(J-WAVE)のコーナー「青春プレイバック」でかけられた、THE HIGH-LOWSの「日曜日よりの使者」。橋本絵莉子と福岡晃子。チャットモンチー2人の関係性や音楽に対する向き合い方は、時にファンや関係者の間で「甲本ヒロトと真島昌利」に例えられている。ヒロトとマーシー、彼らの解散はラジオによって伝えられた。1995年6月1日、NHK-FM、中村貴子がパーソナリティを務める『ミュージックスクエア』のエンディングでその事件は起こった。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万1000字


■『くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン』
   2005年7月5日〜2008年12月30日 ニッポン放送 毎週火曜 深夜1:00 〜 3:00 放送

上田「“髭男爵”ってコンビ名なのに“髭”でも“男爵”でもねーじゃねえか!」

 かつて、上田晋也から受けたツッコミがきっかけとなって容姿を変え貴族漫才を確立した髭男爵。2016年6月18日、放送400回を目前にした『髭男爵 山田ルイ53世のルネッサンスラジオ』(文化放送)は、東京・新宿のNaked Loftで開催したイベント「ねたみおとこvol.2」で、2008年9月の火曜深夜1時30分から放送されていた番組スタート時における裏番組の状況が振り返られた。
当時、ニッポン放送でオンエアされていたのは、その上田と有田哲平による『くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン』。そこでハガキ職人として活躍していたウノTが『ルネッサンスラジオ』の構成を担当しているのは神のイタズラだが、もう1つの裏番組の存在は当時のラジオ界の大問題だった。火曜の深夜1時からTBSラジオで放送されているのは『爆笑問題カーボーイ』。大統領選のない日本の「スーパーチューズデー」とはこのことか。2015年9月からテレビ史上でもっとも贅沢な5分番組といわれる『太田上田』(中京テレビ)がスタートしていることからも両名の旧知の仲の良さはよく知られファン層はがっつりと被っている。当時の火曜深夜は圧倒的に“耳が足りない”時間だった。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万1000字


■『 新垣隆の音楽室 』
          2015年10月〜2017年9月 JFN系列 毎週日曜深夜0:00〜1:00 放送
           2017年10月〜 JFN系列 毎週日曜5:00〜6:00 放送

プリンセス プリンセスの名曲『M』。その番組での“M”は性癖を示し「♪いつもエッチがしたかった〜」と始まる。西野カナの『会いたくて 会いたくて』は「♪ヤリたくて ヤリたくて 震える」と歌われる。2015年3月、NOTTV放送のお色気替え歌バラエティー『セクシーすぎる!歌謡バトルSongooood!!』という特番の会議をしていた時、下世話なりに番組に格を持たせるため、誰か1人音楽の専門家に審査員を担ってもらってはどうかと議案に上がった。しかし、そんな内容の歌の審査員を誰が引き受けてくれるのか。

「新垣さんならやってくれるんじゃない?」

その名前は誰からともなく同時に上がった。事務所に連絡をとるとまさかの即決。番組では適度に“なんでこの仕事を引き受けちゃったんだろ”感を出しながら、歌うセクシータレントたちのちょっかいも上手にかわしながら、キーボードによるメロディで判定音を出す仕事を見事にこなしてくれた。
鼻クワガタ、風船爆弾、セーラー服、氷風呂、壁ドン・・・。数々の番組でリアクション役を担った新垣は、人に頼み事をされると断れない、テレビバラエティのニューフェイスとして引っ張りだこの存在に。『しくじり先生』(テレビ朝日)として番組に出演した時は“五七五”で自身の現在を示した。憧れは 昔はバッハ いま出川。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全8000字


■『小泉今日子のオールナイトニッポン』
   1986年4月9日〜1988年9月28日 ニッポン放送 毎週水曜 深夜1:00 〜 3:00 放送

小泉「深夜ラジオ放送のあと、いわゆる“出待ち”の子たちが“今日子ちゃん、お疲れさま!”って、煙草くれたりしてね(笑)」

『GLOW』2015年6月号で行われた、小泉今日子と著述家・ディレクターの湯山玲子による特別緊急対談「どうする? 女の後半」の中で「オールナイトニッポン」時代の番組終了後の独特の光景について振り返った小泉今日子。その一言には、神奈川県厚木市出身のヤンキー育ちともいわれる彼女の気質と、不良扱いされることもあった親衛隊と呼ばれる当時の熱狂的なファンの性質がよく表れている。心配だから一応当時の年齢を調べてみると、パーソナリティを務めていたのが1986年4月9日〜1988年9月28日ということは20歳から22歳の頃のエピソードになる。だったらセーフか。いやいや、アイドルの振る舞いとしてはむしろアウトだが、小泉今日子だからOKといえるだろう。

石橋「水曜日のオールナイトはパーソナリティが定着してないよな。まぁ、俺ら(火曜日)とたけしさん(木曜日)の間じゃ辛いかぁ」

当時、「オールナイトニッポン」火曜1部担当のとんねるずの石橋貴明が改編期になるとそんなプレッシャーを与えていたように、とんねるずとビートたけしに挟まれているだけでなく、真裏には超絶的な人気を誇る、TBSラジオ『スーパーギャング コサキン無理矢理100%』が同時間に放送されている水曜1部。そんな鬼門に、ニッポン放送はまだ試されていなかった「オールナイトニッポン」の歴史上初めてとなる“現役女性アイドル”をパーソナリティに迎える。
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■『水曜Junk 雨上がり決死隊 べしゃりブリンッ!』
2002年4月7日〜2010年3月31日 TBSラジオ 毎週水曜 深夜1:00〜3:00 放送

「ムーディ氏が、そのような会合であったことを知っていたか否かではなく、疑いを持たれるような行動はコンプライアンスの観点から鑑みても浅はかな行動と言わざるを得ません。健全な地域放送を担う弊社としてはこのまま彼を起用していくことはできないと判断しこのような結論に至りました」

闇営業問題による2019年7月20日の宮迫博之と田村亮の会見、7月22日の吉本興業・岡本昭彦社長の会見を受けて、まず初めに耳に甦ってきた残響は、その1か月前に放送されていた、同じように参加していたその営業メンバーの芸人によるコミュニティFMの番組だ。東京都葛飾区の「かつしかFM」で2017年4月から放送されていたラジオ番組『ムーディ勝山の受け流さないラジオ』。
2019年6月19日、いつもの放送開始時間である午前10時、聴こえてきたのはムーディ勝山ではなく女性アナウンサーの声。非情な先のお知らせが読み上げられ、ムーディの降板と番組の休止が知らされた。右から左へ受け流すことができない驚きとショック。今回の騒動が大きなものになることをその時に確信した。そして、もし今も、TBSラジオで『雨上がり決死隊 べしゃりブリンッ!』が続いていたのならば、その時は誰がどんなアナウンスでそれを知らせていたのだろうかと考えた。
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■『ウィークエンドバラエティ 日高晤郎ショー』
1983年4月9日〜2018年4月7日 STVラジオ 毎週土曜日 8:00〜17:00 時間変更あり

「“歯に衣着せぬ”って、俺の歯は天プラか!」
「“パーソナリティ”じゃなくて“話芸人”って言ってんだろ!」
「“北海道のたかじん”ってなんだよ! 俺は“ニッポンの日高晤郎”だよ!!」

もしも、自分の訃報記事をラジオの「朝刊ひろい読み」コーナーで取り上げていたら、いつものように激しくそんな口角泡を飛ばしていたのだろうか。2018年4月3日、74歳で亡くなった日高晤郎のニュースは北海道内の新聞・テレビ・ラジオだけでなく全国区で大きく伝えられた。『日高晤郎ショー』。静岡にいた筆者がその怪物番組を知ったのは、番組スタートから4年が経つ頃だった。
北海道のSTVは放送メディアの発展とは逆に、1959年にテレビが先に開局し、1962年にラジオが遅れて放送を開始した放送局として希有な歴史を持っている。1987年1月号のラジオ情報誌『ラジオパラダイス』はそのSTVの大特集を展開。毎週9時間を生放送でしゃべり倒す「日高晤郎」とは一体何者なのか? 同時間のテレビ番組を越えるという聴取率12%を稼ぐその語り手の正体とは?その欄で同番組は「日本一長い生ワイド番組」というコピーが付けられ紹介されていた。同誌1990年3月号、ラジオ界ではまだ先輩の多い当時45歳の時のインタビューから大物ぶりが既に伝わる。

日高「だって僕の番組は面白いんですから。他の番組は全然戦おうとしてないし情けないですよ。でも、それでもまだ裏を聞いてるヤツがいるから許せないですね」
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■松岡茉優『AVALON』
       2016年4月4日〜2017年3月27日 J-WAVE 毎週月曜 22:00 〜 23:30 放送

世界が突然、狭苦しい。

2017年12月23日公開の松岡茉優初主演映画『勝手にふるえてろ』。ストーリーが大転換を迎える場面を『シナリオ』2018年1月号掲載の映画脚本の「シーン71」を確認するとそのように書かれてあった。そこで映像をモノクロにしたり画面のアスペクト比を変えるといったアイディアもあったことを明かす大九明子監督は、突然狭苦しくなった世界で松岡演じる主人公・ヨシカに歌を歌わせた。

♪絶滅すべきでしょうか? ねえアンモナイト 生き抜く術を教えてよ
   どんだけねじくれたら 生きやすくなるの 日常は異常 異常巻きの日常

ボーカルレッスンの先生に「こんなの歌じゃない」と言われた、3拍子で始まりながら途中で4拍子に変わる監督の大九明子作詞、高野正樹作曲による物語に合わせた、あえて歪んだような耳馴染みの悪い劇中曲「アンモナイト」。場所をいくつも変えて動き回るその歌唱シーンは実は全て同録でその場で録音されている。それぞれの場所で歌うヨシカ、松岡茉優の生の歌声だと鑑賞後に知ってふるえが来た。
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■『菅田将暉のオールナイトニッポン』
           2017年4月3日〜 ニッポン放送  毎週月曜 深夜 1:00 〜 3:00 放送

  ♪明日 今日よりも好きになれる 溢れる想いが止まらない
   今もこんなに好きでいるのに 言葉に出来ない

GReeeeN最大のヒット曲で230万を越える日本で最も売れたダウンロード・シングル「キセキ」。その曲を菅田将暉は、一時期、すり減るくらいに聴き込んだ。ボーカルだけ、ベースだけ・・・細かいところまで顕微鏡で虫を観察するみたいにして聴くと、グループはこれまで持っていた爽やかでキラキラしたイメージとは違う「こんな大変で結構いかついことやっている」ことに気付かされたという。

JIN「ストレートすぎねぇ? 全部きれいごとみたいで『うわっ』てなるし。もっとこうさ、乗りやすいフレーズとかさ。真っすぐな言葉並べただけで聴く人に伝わるとは限んねえから」
HIDE「それだったら、やる意味ないでしょ」
JIN「そんな夢みたいな世界じゃねえんだよ」
HIDE「夢見なくてどうすんの?」

GReeeeNが起こした奇跡の軌跡を描いた映画。2017年1月から公開された“超爽快青春ムービー”『キセキ ーあの日のソビトー』。その中心的メンバーであるHIDEを菅田将暉が演じた。
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■特別編「コミュティFM『渋谷のラジオ』開局リスニング一年記」

「『渋谷ラジオ』ではありません。『渋谷“の”ラジオ』です!」

2016年1月10日日曜日、4月の開局に向け、ボランティアスタッフとして働くラジオディレクターとパーソナリティを募集するための説明会が渋谷区桜ヶ丘の定休日の中華料理店で開かれた。集まったのは、筆者のような関心はあるものの実は日曜日に暇を持て余していただけのラジオ好きか、出資者の1人である「福山雅治」の名前に引き寄せられたファンも混じっていたのかは分からないが、会場は女性が多数を占めごった返していた。放送局運営の概要や放送に携わる者としての責務などがレクチャーされるなか、しつこいほど丁寧にアナウンスされていたのが「渋谷のラジオ」の放送局名だった。

実は渋谷区には2013年7月まで「SHIBUYA-FM」という別のコミュニティFMがあったが、経営難から閉局。大手地上波もスポンサー獲得に困難を極める時代に当然といえば当然である。さらに紛らわしいことにインターネットラジオには2015年開局の「渋谷ラジオtokyo」という放送局が存在する。新興ラジオステーションの生きる道としてはむしろそちらの方が賢く正しいのかもしれない。しかし、いざという時の大規模災害に備えて地元商店会などからコミュニティFMの再開を望む声が集まり、箭内道彦、福山雅治とともに、渋谷区内でミツバチを飼育し不動産業を営む佐藤勝氏が出資者となり、渋谷の商店会連合会とも連携協働し、総務省から「渋谷のラジオ」に予備免許が交付された。
「渋谷のラジオ」発起人でその理事長に就いたのは、博報堂を経て「風のロック」を設立したクリエイティブディレクター・箭内道彦。「ラジオ局を持ちたい」願望を持ち続ける筆者にとってはジェラシーの対象でしかないのだが、箭内には過去の仕事から安心してラジオを任せられる大きな信頼があった。

「本当にいい音楽に映像はいらない」
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■ 『 アルコ&ピースのオールナイトニッポン 』シリーズ
     2012年8月31日〜2016年3月24日 ニッポン放送 曜日・時間を変えながら放送

「大方の予想どおり“湘南乃風”が猛威を振るっているようです!」
  「“ゆず”と“オレンジレンジ”が柑橘同盟を結び、
   “オレンジレンジ”が謀反(むほん)を企てているらしいです!」 
  「“Def Tech”が“ナオト・インティライミ”をサーフボードでボコボコにしています!」
  「伊賀流の“GReeeeN”と甲賀流の“ケツメイシ”が同盟を組んだ模様です!」

2013年7月25日『アルコ&ピースのオールナイトニッポン0』で始まった「夏歌アーティストの乱」。時にヒットチャートやライブの動員数を巡る争い等から音楽界において「戦国」という言葉が使われるが、この深夜ラジオで開かれているのは、サマーソングを歌っているアーティストのなかで誰が一番強いのかをはっきりさせるためのパーソナリティとリスナーの脳内で行われている戦。その戦場がどんな場所なのか、どんなアーティストが戦っているのか、誰が味方で誰が敵なのか、最後にどのアーティストが勝利するのか、戦況の全ては生放送で続々と送られてくるリスナーのメールによって決められる。やってみなきゃ面白くなるかどうかは分からない、季節ごとに開催されている、聴取率と戦う番組としても大きな戦いであるウォー・ゲームは『アルコ&ピースのオールナイトニッポン』シリーズ1の人気企画だ。

  酒井「忍者になって巻物を取りに行きたいと思ってて」
  平子「忍者になって巻物を取りに行きたい?」
  酒井「格好いいじゃないですか。俺、忍者やるから、平子さん、城の門番やって」
  平子「・・・じゃ、お笑い辞めろよ」

人を食ったネタで『THE MANZAI 2012』(フジテレビ系)で3位となった、平子祐希と酒井健太、アルコ&ピースは、漫才同様、ラジオでも平気でリスナーを食いまくる。
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■『上沼恵美子のこころ晴天』
             1993年4月5日〜 ABCラジオ  毎週月曜 12:00 〜 14:59 放送

今田「『えみちゃんねる』出演、決まったで〜!」

『M-1グランプリ』(ABC・テレビ朝日系)決勝戦で審査員の上沼恵美子から高評価を得たコンビに向け、司会の今田耕司から賞賛の言葉として毎年のように叫ばれてきた、上沼司会による『快傑えみちゃんねる』(関西テレビ)。1995年にスタートした、これまで関東では放送されてこなかったその人気番組が、2019年2月7日から東京のフジテレビで一時的に平日午後の放送が始まった。スカパー!に加入している在京の筆者は、以前から週遅れでの放送がある日本映画専門チャンネルで観ていたが、地上波の系列キー局であるフジテレビでのオンエアはまた格別の意味がある。

濱田「上沼さんの声、大好きです。テレビで聴くときは怖いなって思ったんですけど、実際の声を聴いたらその怖さの中に深い愛情を感じました。全体を包み込むような優し
い声をされています」

関西テレビ2018年8月31日放送回で同番組にゲスト初出演した濱田祐太郎。芸を絶賛された、第16代『R-1ぐらんぷり』(関西テレビ・フジテレビ系)王者となった盲目の漫談家は「媚び売らしていただきます」と前置きをしたうえで上沼の声をそう褒め上げ、「祐太郎さん、ほんとに鋭いです」と沸かせる上沼。実際に僕もよく人に薦めているのは、上沼恵美子の声を聴くことが出来るラジオだ。

上沼「うどんは汁が好きなんです。“汁女”なんです。名前を“上沼汁子”にしたい!」
「家のフレンチブルの老犬に“一緒に死のうね”って言ったのね。・・・横向いたわ」
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■『高橋みなみと朝井リョウ ヨブンのこと』
2017年1月1日〜2021年3月28日  ニッポン放送 毎週日曜 22:30 〜 23:00 放送

高橋「人はいつか決断する時が来ます。それは、遅いか早いか、人によってそれぞれだと思います。その決断が正しいのかなんて、その瞬間には誰にも分からないものです。
選んだ後に、その道を正解にするしかありません!」

2015年3月26日に開催された、さいたまスーパーアリーナでのAKB48春の単独コンサート。運営からチーム替えの人事異動が発表された時、高橋みなみはそう強く言い放った。
毎回、AKB48のファン以外からも高い支持を受けていた高橋みなみのスピーチ。だが、この日、戸惑うファンの皆に、メンバー一同に、そして既に卒業を発表をしていた自分自身に向けて投げかけた、そのキラーフレーズには明確な元ネタがあった。

高橋 私、影響を受けた言葉はすぐ自分の引き出しに入れちゃうんです。『武道館』の言葉も使っちゃうかもしれないです(笑)。「正しい選択なんてないんです。自分の
した選択を、正しいものにするしかない。By朝井リョウさん」(笑)。

  朝井 ホントにいいと思ってくださったなら、そこだけ著作権放棄するので自分のものとして言っちゃってください(笑)。ていうか今、その台詞が高橋さんの頭の中にあったことがめちゃくちゃ嬉しかったです。その台詞のためにずっと助走を続けてたようなものなんですよ、この小説って。

『ダ・ヴィンチ』2015年6月号特集「朝井リョウのいま」。歌が上手でも、ダンスが上手くても人気が得られるわけではない。可愛くしていなくちゃいけないのに好きになってくれた人とは恋愛できない。異物な存在である女性アイドルが武道館を目指す姿を生々しく描いた10作目の小説『武道館』。その発売時に組まれた15ページの大特集の巻頭対談として「一番会って話をしたい人」を聞かれ、朝井が名前を挙げたのが、年内の卒業が発表されていたAKB48グループの総監督だった。
対談が収録されたのは先のコンサートの5日前。2015年3月21日。その日が、高橋みなみと朝井リョウ、記念すべき初対面の日だった。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万6000字


■『ユニコーンのオールナイトニッポン』
            1993年9月21日 火曜日 ニッポン放送 深夜 1:00 〜 3:00 放送

♪あなたをこの手で殺したい あなたをこの手で犯したい

奥田民生の「さすらい」が『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』(テレビ東京系)を通じて、バイクで風を切って走る背中を追ったツーリングのBGMになったことと同様に、2017年9月からは「ハネムーン」が恋に溺れる2人が舌を絡めるディープキスのBGMになった。「愛のために」「花になる」「月を超えろ」「CUSTOM」・・・。大根仁監督の映画『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』が、渋谷直角の原作漫画『奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール』からタイトルに「と」が加わったことにしばらく気付かなかったほどごく自然に、2017秋の公開を経て奥田民生の数々の曲は僕らの日常風景の脳内プレイリストになっている。

奥田「自分ではわかんないですよ」「ほんと困ってます」「どうなんですかねぇ」・・・

「HFM(広島エフエム)」のロゴマークのデザインを直筆で手がける奥田民生は、2017年9月6日、映画と同時期にリリースされた4年ぶりのソロ・オリジナルアルバム『サボテンミュージアム』のキャンペーンのため全国のラジオ番組に立て続けにゲスト出演した。radiko.jpプレミアムのエリアフリーを駆使してチェックしたのは全国約20の音楽番組。すべての番組では当然ニューアルバムについてのトークが繰り広げられるわけで、その流れから各番組のDJは奥田民生自身の名前がタイトルになった映画のことを尋ねるのだが、その全ては先のコメントのように総じて素っ気なくつまらない。スターな男には不釣り合いな照れを差し引いたとしても毎回あまりにもな塩対応が過ぎるのだ。
名だたるラジオDJを困らせたそんなシーンから、僕は24年前のユニコーンの雑誌インタビューを思い出した。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万1000字


■『ゆうがたパラダイス「赤い公園・津野米咲のKOIKIなPOP・ROCKパラダイス」』  
       2016年4月6日〜 2020年11月18日 NHK-FM 毎週水曜 16:40 〜 18:00 放送

「ラジオ・スターの悲劇」

1925年7月12日、東京放送局(現・NHK)がラジオ放送を開始。以降その日は「ラジオ本放送の日」とされ、2017年7月12日、NHK-FM『ゆうがたパラダイス』は「ラジオにまつわる曲」を特集。その1曲目に流されたのが、誰もが一度は聴いたことのある、イギリスのニュー・ウェイヴ・グループ「バグルス」による1979年リリースのその曲だった。
かつては、コーラス部分の「♪アーワ アーワ」が「泡」にかけてチューハイのCMに使われたことからも明るくピースフルな印象があるが、反してその曲タイトルは決してハッピーな意味ではない。1981年8月1日に開局したミュージック・チャンネル MTVが最初にオンエアしたミュージックビデオとしても伝わる「ラジオ・スターの悲劇」の原題はサビの歌詞と同じく、「Video Killed The Radio Star」。直訳すれば「ビデオがラジオスターを殺した」。ビデオ(テレビ)の旺盛がラジオスターの存在を奪ってしまうという輝かしいメディア発展の哀しい裏側を高らかに歌っていた。

その曲が現代でも「ラジオ」から流れているという幸福。どっこい生きているNHK-FM水曜日夕方のラジオスターが津野米咲だ。ガールズバンド「赤い公園」で作詞作曲&プロデュースを手がけるギター担当のリーダー。彼女がその悲劇をリスナーに伝えたのは、2017年7月5日の放送だった。

津野「私、津野米咲が所属するバンド、赤い公園のボーカル・佐藤千明が8月31日で脱退することになりました」
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■『オードリーのオールナイトニッポン』[10周年編]
2009年10月10日〜 ニッポン放送 毎週土曜 深夜1:00〜3:00 放送

若林「テンパってるから、鳴り始めたら階段降りるのか、♪デケデンデンデンデンデンデン〜〜が鳴り終わってから階段降りるのかが分からなかったんですよ」

『オードリーのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)では毎回の放送を締めくくる名物として「ハイライト」というものが存在する。カラーボトルの曲「10年20年」をBGMにその回のオンエア中の印象的な言葉をつなぎ合わせたエモーシャルなエンディングだ。2019年3月2日に開催された『オードリーのオールナイトニッポン 10周年全国ツアー in 日本武道館』でも3時間半の最後に会場に流され、2009年スタートの10年間の歴史が若林正恭と春日俊彰の音声により紡がれた。

冒頭に記したのがその最初の言葉だ。レギュラーが始まる以前、2009年2月28日放送の特番『オードリーのオールナイトニッポンR』での『M-1グランプリ2008』(ABC・テレビ朝日系)を振り返ったフリートーク。『M-1』の登場曲、ファットボーイ・スリム「Because We Can」が響き渡り、スタッフに促され若林が先にゴンドラを降りてセンターマイクに向かい、遅れてゆっくりと歩き出す春日。58組の敗者復活戦から勝ち上がった決勝のステージには、若林と春日と、もう1体、春日のズボンのポケットには、後に入籍を果たすクミさんの作ったお守りの春日人形が潜んでいたことが10年の時を経て明らかにされた。あの日からずっと“春日のココ”は空いてなんかいなかった。
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■『 Berryz工房 嗣永桃子のぷりぷりプリンセス 』
    2009年4月7日〜2012年4月4日 文化放送 曜日・時間を変えながら放送
    2012年4月8日〜2014年4月6日 文化放送超A&G+ 曜日・時間を変えながら放送

『ありがとう おとももち』

2017年6月28日発売の「嗣永桃子アイドル15周年記念アルバム」にも、6月30日に東京・青海野外特設会場で開催された「嗣永桃子ラストライブ」にもタイトルに付けられた、ニックネームの「ももち」から派生した「おとももち」という言葉はもともとラジオ番組から派生したものだった。

「ももち」と呼んでくれた人に一言。
普通のアイドルの場合「ももちって呼んでくれてありがとうございます。うれしいです」。
嗣永桃子の場合「ももちって呼んでくれてありがとうございます。これであなたとは“おともだち”・・・いや、“おとももち”ですね」。

2010年8月25日放送の、通常のアイドルとは一線を画した嗣永桃子の突出したプロフェッショナルなアイドル性をネタにするコーナーにおいて「良くないですか? これ採用させていただきます!」と、彼女はその後のキャリアの最重要キーワードとなる魔法の言葉をリスナーから譲り受けた。
『Berryz工房 嗣永桃子のぷりぷりプリンセス』。タイトル通り「アイドル王国の姫」が番組開始当初に設定された彼女のポジション。その姫の王冠は8人組グループ「Berryz工房」を代表して被っていた。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万7000字


■『 笑福亭鶴光のオールナイトニッポン 』
    1974年4月3日〜6月26日 ニッポン放送 毎週水曜 深夜1:00 〜 5:00 放送
     1974年7月6日〜1985年10月5日 ニッポン放送 毎週土曜 深夜1:00 〜 5:00 放送

「オマ○コ!」

1984年3月31日深夜に起こった四文字言葉絶叫事件。日本の放送史に燦然と輝く生放送で放送禁止用語が叫ばれたハプニングだが、30年も過ぎると事件の重要な部分が抜けて伝わっていることが多くみられる。松本明子が『オールナイトフジ』(フジテレビ)でその言葉を発したというだけでは不十分で、実は番組は『オールナイトフジ』1周年と『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)10周年を祝して合同で行われた、テレビとラジオ、2つの番組によるメディアの垣根を越えたコラボレーション企画の中で起こっている。その生放送中、『オールナイトフジ』MCの片岡鶴太郎と笑福亭鶴光が、『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』の新アシスタントとなった松本明子を追い込んだ。

片岡鶴太郎「アッコ、お前、今、付き合ってるヤツいるだろ?」
松本明子「えっ!?」
片岡鶴太郎「俺、知ってるぞ!」
松本明子「ダメ〜!」
笑福亭鶴光「これは聞いてみよう!」
片岡鶴太郎「ウチの近くで彼が働いてたの。それで芸能界にデビューしまして・・・」
松本明子「ダメ! ダメ〜! なんでもします!!」
笑福亭鶴光「なんでもするな? ほなカメラに向かって四文字言え!」
松本明子「オマ○コ!」

その音声はフジテレビだけでなくコラボしていたニッポン放送のラジオでもしっかりと流れた。四文字を言わせた主犯格は紛れもなく「オールナイトニッポン」パーソナリティ・笑福亭鶴光なのである。
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■『 ハイ!SPEEDで行こう! 』
    1996年10月13日〜2000年3月31日 ニッポン放送 曜日・時間を変えながら放送

寛子「SPEED学級新聞! 1つめの話題は・・・今さら“ポケベル”購入!!」
絵理子・多香子・仁絵「買った!買った!」
多香子「なんで今さらなんだろうね」
仁絵「いっつも遅いんだよね」
寛子「ほら、みんな音が違うからさ」

その流れでメンバーが順番に設定したポケベルの着メロを聴かせる。多香子はスピッツの「ロビンソン」、寛子はDREAMS COME TRUEの「LOVE LOVE LOVE」、絵理子はMr.Childrenの「CROSS ROAD」、仁絵が「ミッキーマウス・マーチ」。最近使ったのはお互いに夜中にベルを鳴らして起こし合って「おやすみ」を伝えたことだったという。沖縄出身の4人の少女たちの番組はそんな時代に放送されていた。

『ハイ!SPEEDで行こう!』。今から20年前の1997年3月9日放送。当時の年齢で下から、島袋寛子、12歳、小学6年。今井絵理子、13歳、中学1年。上原多香子、14歳、中学2年。新垣仁絵、15歳、中学3年。メンバー4人の平均13.5歳。ドラマ『ポケベルが鳴らなくて』(日本テレビ系)の放送が1993年だから確かに購入時期は遅いが年齢を考えれば当時のポケベルは贅沢なシロモノだ。

三宅裕司「このグループの名前、いいのがありましたらどんどんお寄せ願いたいと思います!」
寛子・絵理子・多香子・仁絵「お待ちしてまーーっす!」

1995年春、沖縄アクターズスクールからライジングプロダクションにスカウトされた4人は、上京後、歌とダンスの猛レッスンを経て、11月11日、憧れの安室奈美恵がレギュラー出演する音楽バラエティ番組『THE夜もヒッパレ』(日テレ系)で4人揃ってテレビに初登場した。
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■『安住紳一郎の日曜天国』
2005年4月10日〜 TBSラジオ 毎週日曜 10:00 〜 11:55 放送

中澤「A」 安住「〈L↑〉レイワ」  中澤「B」 安住「〈L↑〉レーワ」
中澤「C」 安住「〈L→〉レイワ」  中澤「D」 安住「〈L→〉レーワ」
中澤「E」 安住「〈R↑〉レイワ」  中澤「F」 安住「〈R↑〉レーワ」
中澤「G」 安住「〈R→〉レイワ」  中澤「H」 安住「〈R→〉レーワ」

新元号発表から1週間後の2019年4月7日、『安住紳一郎の日曜天国』(TBSラジオ)では、安住は各放送媒体でバラバラに使われていた「令和」の発音について解説した。聴き書きでの表記も難しいそのアクセントが、ホワイトボードを使い新人アナウンサーへの講義としてテレビで可視化されたのが、2019年7月5日の特番『安住紳一郎と2019年上半期のTBS』(TBS)だった。ポイントは「LとRの違い」「長音の読み方」「頭高か平板か」の3つだ。

安住「NHKでは3『〈R↑〉レイワ』でやろうとしてるわけ。TBSは7『〈R↑〉レーワ』でやろうとしてるでしょ。ただ俺はそのうち8『〈R→〉レーワ』が来るんじゃないかと読んでるわけ。使用頻度の高い固有名詞は“平板化”してるでしょ?」

「L」と「R」の発音の違いも含め、8種類あるパターンをアルファベットの「A、B、C」ではなく、順番も整理し直して数字の「1、2、3」にしたのは分かりやすく、ラジオでは「どれで定着するんでしょうかね」で締めくくっていたが、3か月後のテレビ放送ではセルフ二次利用の映像化だけではもちろん終わらせなかった。未来に向けて自分なりの予測を視聴者に提示し、深夜のバラエティ番組であることを意識して、あえて先輩風も笑いにし「俺は」というフランクな一人称で難解な講義を柔らかくするテクニックも披露。きっとラジオを消して観たリスナーもニヤっとさせられたはずだ。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万3000字


■『裕木奈江のオールナイトニッポン』
   1992年10月21日〜1993年9月29日 ニッポン放送 毎週水曜 深夜1:00〜3:00放送

裕木「こんばんは、裕木奈江です! 初めましての人は初めまして! そして過去、阿久津薫子、松田タマコ、渡辺みづき、みい子、有川とも、あと松村姫かな、という名前の私と会ったことある人はいると思うんですが、お久しぶりです。今日は裕木奈江でや
ろうかなぁって・・・」

1992年10月21日から水曜1部でスタートした『裕木奈江のオールナイトニッポン』。その初回のオープニングで捲し立てるように6人分の役名を挙げて挨拶した22歳の女優・裕木奈江。当時はまだリスナーの手元には検索装置がないためきっとモヤモヤしてていたことだろう。
フルネームで呼ばれることは一度も無かった『ふぞろいの林檎たちIII』(TBS系 199年)のメイド役に、脚本家・山田太一が「松村姫」という名前を与えていたことは初めて知った。そして、様々な出来事に翻弄され続けた6人に負けず、「裕木奈江」もまた大きな物語を背負っていた。

私の好きな色は萌黄色、又は苗色と申します。彼女が産まれた時、私は苗色からとって
“奈江”と名付けたかった。彼女のデビューに想い出と勇気を込めた芸名をプレゼントさ
せて下さい。

「オールナイトニッポン」が始まったのと同じ秋、1992年10月5日からスタートした、小林信彦著『極東セレナーデ』を原作にしたドラマ『ウーマンドリーム』(関西テレビ・フジテレビ系)。地方から上京した朝倉利奈が女優へと成長を遂げる少女の成長譚。その第4話で事務所に届けられたのが、利奈が行方を捜していた先の母親からの手紙。それによって劇中の女優の名は「裕木奈江」となった。
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■ピーター・バラカン『Barakan Beat』
1996年4月〜 Inter FM 毎週日曜18:00 〜 20:00放送
ピーター・バラカン『ウィークエンド・サンシャイン』
1999年4月〜 NHK-FM 毎週土曜7:20 〜 9:00放送

「本当に“妖精”だと思います」

ながら見をしていたため、本当に筆者はそう聴き間違えていた。
2016年4月、BABYMETALが全米チャートでは坂本九以来、53年ぶりのトップ40入り。3度目のワールドツアーの初日に1万2000人を動員し開催された、イギリスSSEアリーナ・ウェンブリーでの日本人初の単独公演成功を収めたニュースがエンターテインメント界で話題となっていた。それが、4月25日放送『モーニングCROSS』(MXテレビ)でも扱われ、英国の聖地でライブをする重要度を知るピーター・バラカンは意見を求められ先のように答えた、と勘違いをしていた。

1910年代、妖精写真を捏造した「コティングリー事件」で国内が混乱に陥ったフェアリーの本場であるイギリス。英国出身であるバラカンらしい粋な褒め方だなと。それを言った時の表情も観ていなかったため、外出しても午前中の数時間は本当にそのように納得していた。しかし、スマホを開いて確認したネットの騒動からすぐに僕の聴き間違えが判明する。

「本当に“世も末”だと思います」

「妖精」ではなく正しくは「世も末」。音の響きが似ているのに意味合い的には全くの逆だ。20年前、テレビの放送作家の仕事を始めた頃、『ボキャブラ天国』(フジテレビ系)のネタ出しに参加していた思考のクセから、これは座布団の受賞も無くはない優秀な“ボキャブラ”だなと思うと同時に、放送後のバラカンの朝のコメントに追い打ちをかるようなあまりにも辛辣なツイートに目を疑った。
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■斉藤由貴『オールナイトニッポンMUSIC10』
    2015年10月1日〜2017年9月7日 ニッポン放送 毎週木曜 22:00 〜 23:50放送

「ダンナさんのノロケ話や家庭内の話が多すぎるのでは」

1997年4月〜1998年3月の1年間、読売新聞で連載された斉藤由貴によるエッセー「いつでも わたし流」。ある時、彼女は、何通ものハガキが届いていたというそんな批判の内容を紹介した。当時は結婚して間もない30〜31歳の頃。夫婦で富士急ハイランドに行きジェットコースターに乗った話。壁に貼った世界地図に夫が仕事で行った国に印を付けて楽しんでいる話。夫婦喧嘩をした後2人で本を持って公園のベンチに座って仲直りをした話。夫に「君がそうやって何かを書いている姿が好きだ」と言われ「私もあなたがコンピューターに向かってキーを叩いている姿がいいと思う」と返したという話・・・。確かに読む人によってはノロケてみえるのかもしれない。漫研出身の自身の筆による絵が添えられた800字の原稿は、読むこちらが照れてしまうような夫との愛で彩られていた。
そして、2015年10月に始まったラジオ番組では、同じ家族の話でも、夫とのエピソードから更新し、それから18年の間に生まれた3人の子供たちについての話が多くを占めている。

「幼稚園で七夕の笹を飾るじゃないですか。長女の時の思い出なんですけど、短冊になんて書いてあるかな〜って探したら、書いてあった言葉が“ピンクのお星さまになりたい”。
お願い、幼稚園児でお星さまにならないで〜!ってマジで泣きそうになってしまいましたよ」                       (2016年7月7日放送)
「私が、ほら見てごらん、虹だよって指差したら、娘が、うわ〜きれい。ってしばらく眺めた後、一言“のぼれるの?”って聞いたんですねぇ。もうその時の親として溶ける感
じ? かわいい! っていう溶ける感じを今でも思い出されます。そんな可愛かった娘も17歳になり、今は“マミ、うざい。勝手に部屋に入ってこないで!”っていう娘になって・・・」                   (2017年4月6日放送)
「私なんか今朝、子供を駅に送るのボイコットしちゃったもんね! あんまり怒って。もういい、アンタ勝手に行きなさい! バスに乗って! って。そしたら父親がぼそっと送って行きましたけど・・・、それからお布団の中でふて寝しました。・・・そんなもんですよ」
(2017年5月18日放送)

2015年10月のスタートから2年が経過したニッポン放送平日夜の帯ワイドの大編成。「夜10時から素敵な音楽を10曲届ける」という意味が込められた、「オールナイトニッポン」ブランドによる大人のための音楽番組『オールナイトニッポンMUSIC10』(ニッポン放送)。
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■『水曜JUNK 山里亮太の不毛な議論』
(2010年4月7日〜 TBSラジオ 毎週水曜 深夜 1:00〜3:00 放送)

♪生きててよかった 生きててよかった 生きててよかった そんな夜を探してる
  生きててよかった 生きててよかった 生きててよかった そんな夜はどこだ

1曲中に22回「生きててよかった」と叫ばれるフラワーカンパニーズの『深夜高速』。2009年9月にはコンピレーション・アルバム『深夜高速-生きててよかったの集い-』がリリースされ、『深夜高速』ただ1曲を13組の名だたるミュージシャンがカバーしているが、山里亮太はラジオで、ライブで、芸人仲間と行くカラオケで、日常の鼻歌で、もしかしたら彼らよりずっと多くこの曲を流し、聴き、歌っているのかもしれない。もちろん、プロミュージシャンとは比べるのも失礼なほど熱量に任せた下手くそな歌声で。しかし、きっと絶対に、誰よりもこの曲に救われているし、背中を押されている。

ワゴン車でのツアーの移動を情景に描いたフラカンの『深夜高速』だが、もちろん、山里にとっては、2010年4月から毎週水曜日の1時から3時まで、深夜に走り続けるラジオ番組『山里亮太の不毛な議論』(TBSラジオ)に照らし合わせることが出来る。だが、通算500回のオンエアを突破した生放送10年の歴史の中で、山里亮太は2018年12月19日にたった一度だけ番組を休んだことがある。

「水曜JUNK“山崎静代の”不毛な議論!」

山里が虫垂炎による療養のためピンチヒッターを務めたのは「南海キャンディーズ」相方のしずちゃん。「今日2時間しゃべったら死ぬんちゃうかな」と長くしゃべり続けたことのない不安をオープニングで打ち明けながらも、山里が信頼する後輩、GAG・宮戸洋行のサポートも受け、堂々と2時間を走り抜いた放送中に出てきたのが、しずちゃんとは長く付き合いのある1人の親友の話題だった。

山崎「蒼井優ちゃんなんですけど・・・。優ちゃんとも、この間、飲みに行きまして。
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■『 さくらももこのオールナイトニッポン 』
  1991年10月21日〜1992年10月12日 ニッポン放送 毎週月曜 深夜 1:00〜3 :00 放送
『 ももこのおしゃべりチャンネル 』
  2015年10月4日〜2016年1月17日 CBCラジオ 毎週日曜 22:30〜23:00 放送

中島「来週からのオールナイトニッポンは、さくらももこさんが月曜日を担当いたしま
す! さくらももこさん、しゃべりの練習を毎日テープに録ってやってるんだって。
(中略)どうぞよろしくお願いします。来週からは、さくらももこです!」

1991年10月14日月曜日「オールナイトニッポン」の終わりにまるで選挙の応援演説のように、次週からの新パーソナリティの名前を連呼したのは、この夜「オールナイトニッポン」の25周年を記念し一夜限りの復活を遂げた中島みゆき。1979年4月〜1987年3月にレギュラー放送されていた、その月曜1部の番組を聴いていた思い出がさくらももこのエッセー『もものかんずめ』にある。

17歳の頃、深夜のラジオ番組で、「夜の十二時に、新しい鏡とクシを持って便所に行くと、将来結婚する相手の顔が見える」という情報を聞き、私の胸は高鳴った。“そんなバカな事あるはずがない”と思いながらも“ひょっとしたら見えるのかもしれない、もし憧れ
のあの人が見えたらどうしよう・・・”という無鉄砲な期待が、私を常識の域から離脱させたのであった。

本には書かれていなかったそのラジオ番組は『中島みゆきのオールナイトニッポン』。漫画を描くのが大好きな静岡県清水市の女子高生リスナーは、神聖な儀式のために鏡もクシも新調して深夜12時の10分前から家族も一緒に使う家のトイレを占拠したが、当然、浅い眠りのなかでどんなにファイトを出しても“未来”が見えるはずはなく「そこにはマヌケ面した自分の顔があるだけであった」という苦い青春を、1992年7月6日、中島みゆき本人を「オールナイトニッポン」のゲストに迎えて伝えた。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万4000字


■特別編「『めちゃイケ』アフター ラジオで愁活(シュウカツ)」

  「僕ら35歳ぐらいの芸人って、ニューヨークもそうなんですけど、悔しいけど『めちゃイケ』で育ったんですよ。『めちゃイケ』でガッツリ育って、中学校、高校で、もうナイナイさんとか『めちゃイケ』メンバー、極楽さんとか大スターだったわけですよ。そんな想いが胸の奥にあって吉本入って10年ぐらい芸人やったら・・・もう、『めちゃイケ』が終わった途端の『めちゃイケ』メンバー達の体たらく・・・」

2021年2月18日『ナインティナインのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)にゲスト出演した鬼越トマホークとニューヨーク。予定されていたスペシャルウィーク企画「矢部の壁」をふっとばして放射された鬼越・坂井良多からのいかにもな言い回しによる『めちゃ×イケてるッ!』(フジテレビ系 1996年〜2018年)への熱い思い入れ。ナインティナンの2人がずっと仲裁に入るタイミングを待ち構えながらも、その日“ケンカ芸”は封印し『めちゃイケ』復活を懇願し続けた。
そういえば、『めちゃイケ』創世記時代に放送されていた『ナインティナインのオールナイトニッポン』からは、岡村隆史と矢部浩之による“ケンカトーク”が度々聴こえてきた。

矢部「だから日本はまだ行ったらあかんのよ!」
岡村「行ったらあかんことない! 行かなあかんねん! 2002年の日韓のワールドカップのこと考えたら行かなあかんねん!」
矢部「いや、“行ったらあかん”ちゃうわ。日本は・・・行かれへん!」
岡村「行かれへんちゃうねん! 行けんねん! 行けんねんけど行きにくいねん!!」

1997年10月9日放送で、フランスW杯アジア予選での日本代表の不甲斐ない戦いを振り返り、茨木西高サッカー部出身の先輩と後輩は激しく言い合った。
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■槇原敬之『 Who cares? 』
2015年10月4日〜2020年2月9日 bayfm 毎週日曜 17:00〜17:51 放送

槇原「2020年! いやぁ〜、まさか重なっちゃったね〜。30周年とオリンピックがね。イベントとかしにくいね〜〜!」

2018年10月14日放送、『Who cares?』のテーマは「世界建物紀行」。サウジアラビアに建設中の高さ1008メートルのハイパービルディング「ジッダ・タワー」の完成予定が2年先であることを伝えた槇原敬之は、1kmを越える驚異的な高さより、2年後となる「2020年」に大きく反応した。その声は、困っていながらも嬉しそう、頭を抱えながらも楽しそうに聴こえた。スポーツ観戦の好きなマッキーファンなら、生涯で一番のスペシャルイヤーを前に懐具合とスケジュールを気にし始めていた頃かもしれない。

しかし、現実の2020年は、何もかも無くなった。東京オリンピック・パラリンピックも。槇原敬之デビュー30周年イベントも。ジッダ・タワーも建設工事が中断。2020年中の完成は無くなった。はたして、槇原敬之デビュー30周年イヤープロジェクト「2020年秋冬全国ツアー」の構成や演出プランはどこまで進んでいたのだろうか。実現した時はきっと、2020年のツアー中もこのラジオ番組のエンディングからリスナーに宣言をして、いつものように“瞬間移動”を決めていたことだろう。

槇原「さぁ、この後は6時から名古屋でコンサートです!」
    「今日は和歌山! 絶対盛り上がると思いますよっ!」 
    「この後5時半から、大宮ソニックシティ! きっとうまくいきます! なのにこんなとこでラジオやってて大丈夫なの? 大丈夫なんです!」 

番組終了が5時51分までのため、時には“瞬間移動”だけでは事足りず、ラジオブースにいながらも、他の都道府県へのコンサートステージに“分身の術”を披露することもよくある槇原。言うまでもなく番組は「事前収録」によるものだが、槇原はこの“ライブが「うまくいく」”ことを事前に言えることが、録音ならではの特権、「未来への通行手形」だという。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万2000字


■特別編「永六輔 叶わなかった生放送の大往生」

   昨日午後7時20分過ぎ、TBSラジオ『六輔七転八倒九十分』の生放送中にパーソナリティの永六輔氏(本名・永孝雄)が港区赤坂のTBSのスタジオで亡くなった。先週までの1か月間は体調を崩し番組を休んでいたが、昨日は病院の診察を受けてから娘の永麻理さんとともに参加した。しかし、番組後半のコーナー「六輔交遊録 ご隠居長屋」で永氏の反応が無いことに出演者のはぶ三太郎が気付き、一同が呼びかけ救急医も駆け付けたがそのまま息を引き取った。永氏の最後の言葉は外山惠理アナウンサーに対して言い間違えた「長峰さん」だった。享年83。 

本人が望んでいた最期とは例えばこんな感じだったのだろうか。1994年出版、200万部を売り上げたベストセラー『大往生』の最後に自分への弔辞を書き、1969年放送の『パック・イン・ミュージック』(TBSラジオ)では旅先のニューギニアから帰国できなくなったアクシデントを逆手に、「永六輔、ニューギニアで人喰い人種に喰われる!」という番組を放送し警察にも怒られた永六輔。
これまで度々、自らの「死」をネタにした偉大なるラジオの巨人ではあるが、冷静に考えれば生放送中に亡くなることは、机の下でのキックやマイクで殴ることよりも悪質である。しかし、ついに全レギュラー番組が終わり、TBSラジオがその有り難いいやがらせを受ける機会も失われた。

1967年から2013年まで、平日の10分間、46年間続いた『永六輔の誰かとどこかで』。1970年から1975年まで、毎週土曜日6時間半放送された『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』。1991年から2015年まで、24年半続いた『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』。さらに1969年から1971年の土曜深夜は『パック・イン・ミュージック』も担当し、1964年から2008年放送の『全国こども電話相談室』では回答者としても活躍。時間帯と番組カラーに合わせ、子供に向け、若者に向け、高齢者に向け、ある時期の「TBSラジオの音」とはまさしく「永六輔の声」のことだった。重要なポイントは生放送はすべて週末に固めていたことである。
〜〜〜以降つづく〜〜〜全1万1000字


それぞれの続きが気になった方は、ぜひ、お手にとって読んでいただければと思います。

ラジオが好きな人へ。
ラジオが好きだった人へ。
ラジオをこれから好きになる人へ。
それでは、本の中でお待ちしています。