高槻彰・編 第14回

 作品が作者の思惑を越えてゆくものだけが、優れたドキュメントである──という意味のことを前回に書いた。高槻彰について書き始めて早14回。いつの間にか一年以上が過ぎていた。そしてつくづく思うのは、自分はこの人の作品、そして高槻と共に90年代というものを駆け抜けた平野勝之から、このドキュメンタリーの本質のようなものを学んだということだ。90年代、と思わず書いたけれど、それについては後述する。 なぜ、作品は作者の思惑を越えなければならないのか? それは、実はドキュメントに限らずフィクションであれ同様で、つまりは表現全体に関わる問題だ。どうしてならば、作品とはすべからく多くの人々が知らず知らずのうちに感じていて、しかしハッキリとは思い描けないもの、でなければならないからだ。例えばエルヴィス・プレスリーやザ・ビートルズといった人たちの音楽が登場した時、世界中の若者が熱狂したわけだが、彼らがそれ以前に・・・・・・・・・・

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