連載
映画ジャーナリスト ニュー斉藤シネマ1,2

【映画を待つ間に読んだ、映画の本】第24回 『風立ちぬ/宮崎駿の妄想カムバック』〜漫画「風立ちぬ」をそのまま映画化したら、『紅の豚』のような作品になっただろう。

風立ちぬ
『風立ちぬ』
宮崎駿
大日本絵画
2,376円(税込)
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●映画『風立ちぬ』に込めた、宮崎駿監督の覚悟

 「もっと物質的にも時間的にも窮迫した中に生きなきゃいけなくなると思うんです。その時に自分たちは何を作るのか。少なくとも充分予想される時に、前と同じようにファンタジーを作って、女の子がどうやって生きるのかという風なことではすまないだろうと思いました。
 『風立ちぬ』というのはですね、実は『激しい時代の風が吹いている。吹きずさんでいる。その中で生きようとしなければならない』という意味です。それがこの時代の変化に対する、自分たちの答えでなくてはならないと思います」。
 ・・映画『風立ちぬ』について思い出すのは、公開時にオンエアされたNHKのドキュメンタリーで、宮崎駿監督が全スタッフに対して語った、このコメントだ。これから映画を作り始める。その時、宮崎はスタジオジブリの全スタッフを集めて、こう語ったのだ。
 これはいわば宮崎監督の所信表明、いや本作を作る上での「覚悟」と捉えて良いだろう。実在した飛行機設計技師・堀越二郎の人生を描く『風立ちぬ』だが、宮崎監督は周囲から「戦争の道具を作った人の映画を作るの?」と言われたそうである。映画の狙いはそうではなくて、宮崎監督は「美しい飛行機を作りたい」と願った二郎の生き様、思想こそを映画に反映させたいと思っていた。だが二郎が零戦をはじめとする軍事兵器の設計に携わったことは事実だ。ドキュメンタリーの中で宮崎監督は「それに答えなくちゃいけないんです」と語り、鈴木敏夫プロデューサーも「大切なことですよね」と同意する。
 映画『風立ちぬ』は、「美しい飛行機を作りたい」と願った設計技師の話であり、戦争の道具を作った男の生き様を描いた作品である。さらに付け加えれば、結核に冒された女性とのラブストーリーであり、関東大震災から戦争へと突き進んでいく日本を描いた作品である。そしてまた宮崎監督はこの映画の二郎に、亡き父の印象を重ねたというが、それは当人のみぞ知るところであろう。


●漫画『風立ちぬ』は、映画『風立ちぬ』と大きく異なる

 その「風立ちぬ」には原作があり、これは宮崎監督が「道楽として」模型雑誌に描いた漫画連載だという。映画『風立ちぬ』の公開時に単行本として発売されなかったのは、関連商品として見なされたくなかったのかと思ったが、このたび晴れて上梓された漫画版『風立ちぬ』を読んで、合点が行った。映画『風立ちぬ』と、その原作である漫画『風立ちぬ』は、まったく異なった作風なのである。
 両者に共通しているのは、零戦を設計した堀越二郎が、終生「美しい飛行機を作りたい」と念じていたことと、結核を煩った菜穂子(映画では奈緒子)と恋に落ち、結婚すること。そして二郎が憧れたカプロニー(映画ではカプローニ)伯爵が、ことある事に二郎の脳内に登場して、様々な示唆を与えるといったことだ。映画『風立ちぬ』にあった「戦争の道具を作った人を描く理由」も「関東大震災から戦争へと突き進んでいく日本」の描写も漫画「風立ちぬ」にはほとんどなく、そもそも映画で二郎と菜穂子の出会いの背景となった関東大震災が、漫画「風立ちぬ」には1コマしか登場しない。
 故に、漫画『風立ちぬ』は、ただひたすら堀越二郎の「美しい飛行機を作りたい」という思いを受け止めた宮崎監督の緻密なタッチによって描かれた、往年の名飛行機が続々と登場する、楽しい漫画となった。そのディテイルの細かさ、余白に書かれた蘊蓄のあるコメントを見て感じるのは、宮崎監督がこの時代に作られた飛行機に溢れんばかりの愛情を注いでいることだ。大地震も、戦争も、どっちでもいい。ただただ二郎が夢見た「美しい飛行機」への思いを共有するかのように、漫画『風立ちぬ』には、空を飛ぶ機械に対する純粋な憧れと楽しさが、ふんだんに盛り込まれている。もしこの漫画をそのまま映画化したら、『紅の豚』のような映画になるのではないだろうか。


●感情移入を拒否した、映画「風立ちぬ」の二郎

 漫画『風立ちぬ』と映画『風立ちぬ』は、共に堀越二郎とその思いを描いているものの、両者の表現手段はまったく異なる。漫画では豚の顔をした二郎が随所で自身の心情や感情を吐露し、「美しい飛行機を作りたい」のは、それを菜穂子に見せたいからだという動機さえ明かしてみせる。ところが映画『風立ちぬ』の二郎は終始無表情で、感情表現が希薄だ。これは宮崎監督が二郎のキャラクター描写をする際、「昔のインテリは、たくさん喋らない」との考えを優先させ、庵野秀明を声優に起用したことに起因する。訥々とした庵野のエロキューションのおかげで、二郎がいかなるキャラクターかは伝わったものの、台詞を通しての感情表現があまりに少なく、見る者は二郎という人物に感情移入が出来なくなってしまったと考える。例えば名古屋駅で二郎が奈緒子を迎えるシーンで音楽の高鳴りとその芝居が、えらく大げさに感じられてならないのは、二郎の心情が、伝わってこないからだ。
 これに比べると、漫画『風立ちぬ』の二郎の言動は分かりやすく、その豚顔には愛敬さえ感じさせるほどだ。漫画『風立ちぬ』の「芯」にあたる「美しい飛行機を作りたい」という二郎の思いは、映画『風立ちぬ』にも強く反映されているが、それを表現する手段の違いが、映画と原作漫画の間に大きなギャップを生じさせている。


●物騒で不安な時代だからこそ、楽しいものに接していたい

 冒頭に掲げた、映画『風立ちぬ』製作開始にあたって宮崎監督が表明した、作り手としての「覚悟」。映画が公開された2013年の夏から2年ちょっとが経過したが、その間、この国の様相は大きく変化した。今は「戦後」ではなくて「戦前」なのではないかと思うほど、「戦争」「徴兵」「テロ」という言葉は、僕たちにとって身近なフレーズになってしまった。宮崎監督が言う「もっと物質的にも時間的にも窮迫した中に生きなくてはならない」時代が、既に訪れている。まるであの時の言葉が予言したかのように・・。
 結論。こんな物騒で不安な時代だからこそ、僕は映画『風立ちぬ』を繰り返し見ることよりも、漫画「風立ちぬ」を枕元に置いて、何回も読み返したいと思う。激しい風が吹く時代だからこそ、楽しいものに接していたいと思うのだ。

(文/斉藤守彦)

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斉藤守彦(さいとう・もりひこ)

1961年静岡県浜松市出身。映画業界紙記者を経て、1996年からフリーの映画ジャーナリストに。以後多数の劇場用パンフレット、「キネマ旬報」「宇宙船」「INVITATION」「アニメ!アニメ!」「フィナンシャル・ジャパン」等の雑誌・ウェブに寄稿。また「日本映画、崩壊 -邦画バブルはこうして終わる-」「宮崎アニメは、なぜ当たる -スピルバーグを超えた理由-」「映画館の入場料金は、なぜ1800円なのか?」等の著書あり。最新作は「映画宣伝ミラクルワールド」(洋泉社)。好きな映画は、ヒッチコック監督作品(特に『レベッカ』『めまい』『裏窓』『サイコ』)、石原裕次郎主演作(『狂った果実』『紅の翼』)に『トランスフォーマー』シリーズ。

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